ダイヤのAをざーっと読んだ初見感想。感想というより分析に寄ってるところがあったり、同人や5ちゃんに言及したりする。3万字ぐらいあります
余談と、失礼な物言いが多いが、私はダイヤのAを尊敬しています。
スポーツ漫画
私はスポーツ漫画に特段の思い入れはない。
というか、スポーツ自体に思い入れがない。
ただ、黒子のバスケやハイキューなど、同人人気のあるスポーツ漫画は萌え目的で読んでいた。
同人人気も一般人気もあるだけあって、キャラクターも展開も外連味に溢れ、読んでいて楽しい。
最近、黒子のバスケを読み返して、ああやっぱ面白かったんだなあと気づき、
その流れで、いくつかスポーツ漫画・アニメを鑑賞し始めた。
灼熱カバディ、メダリスト、ユーリ!!on ICE、忘却バッテリー、そしてダイヤのA。いろいろと見ていくうち、私がスポーツものに求めることがなんとなく固まってきた。これからその固まった偏見をもってダイヤのAの感想を言いたい。
ジャンプ以外のスポーツ漫画アニメについても言えることだが、スポーツ漫画はスポーツを楽しむだけではなく、それにかかわる人間たちがどう生きているのか、そこからどのような人間関係が生まれるのかを楽しむことができる。
「スポーツ」の前に「人生」がある。
ただ、個人的に、ダイヤのAにおける「人生」はほぼ「スポーツ」つまり、「野球」なのではないかと思った。
野球の中に人生があり、人生とはつまり野球である。
ハイキュー!!のように、バレーボールは人生の一部であり、高校で負けたとしてもそれで終わりではない、高校の試合で負けたあとにも人生が続く、というようなテーマは、ダイヤのAではほぼ前面に出てくることはない。
ダイヤのAは、ずっとリングに上がっている人間のために描かれた漫画だ。
詳細は後述するが、ダイヤのAは、私が読んだ中でもっとも明るく、もっとも厳しいスポーツ漫画だと思う。
違和感
ダイヤのAには違和感があった。
つまり、「この漫画はどこから来たんだ?」という違和感である。
つまり、「こんなのジャンプで連載できんのか?」という違和感である。
もちろんジャンプで連載はできない。マガジンで連載していたからだ。
ただそれを抜きにしても、ジャンプでは連載できないだろうな…..と思う漫画だ。
その理由は、「長い」からである。
連載が長いということではない。
主人公が辿る道筋が「長い」。
この漫画は、主人公である沢村栄純がボールを投げるところから始まる。
中学最後の公式戦、しくじれば試合終了という状況で、沢村の投げた球は大暴投。
田舎の弱小野球部はとうとう一勝もできないまま、彼らの公式戦は終わった。
そんな試合のあと、沢村の家に高島礼という女性が訪れる。彼女は沢村の投球に可能性を感じ、東京の野球の名門、青道高校にスカウトをしにきたのだ。
このまま仲間と野球を続けたいと断る沢村だが、彼女にまんまと乗せられ、青道を見学することとなる。
見学中、沢村は後輩を罵倒する傲慢な先輩に我慢ならず、投球勝負をするはめに。
そして、ある天才捕手、御幸一也と出会い、「野球」の新たな観念に触れた沢村は、青道への入学に心惹かれる。
家族、そして地元の友人たちに背中を押された沢村は、友人たちの思いを背負いながら、青道へ向かう電車で一人「甲子園へ行く」と決意を固める____
これがだいたい一話の内容だ。
そして、青道に入学した沢村は数々の困難やライバルとの争いを繰り広げながら、青道のエースになる道をかけあがっていく。挫折あり、怪我あり、イップスありの道だ。
この道は、長い。沢村がエースになるまでが、ものすごく長い。
練習練習練習試合練習練習試合試合練習。
「スポーツ漫画は練習試合をまずする」
「とにかくバンバン敵を出す」が常識のジャンプではこれはできない。
それを抜きにしても、沢村の道は困難極めている。
原作既刊あわせて81巻、沢村がエースナンバーをもらうのは、なんと63巻目だ。
正確にいうと、actⅡの16巻である。あまりにも
長い。
長いし、辛い。
だから、主人公が特異な力を持っていて、初めから第一線でばりばり活躍するという感じの爽快感は望めない。
そしてイヤな言い方をするなら、沢村がこの道を途中であきらめても、きっとダイヤのAは成立する。
個人的に、ダイヤのAの「違和感」はここにまず起因すると思う。
黒子のバスケで、黒子が途中で「もうバスケはやめます」となったらあの物語はめちゃくちゃである。青峰はグレたままだし、赤司の人格は戻らない。傍若無人のキセキの世代があのまま成長したら、あの世界はより殺伐とした、凡人の怨嗟満ちる屍界となるだろう。
スラムダンクで、花道が晴子さんにひとめぼれして釣られておらず、ヤンキー街道を邁進していたら、湘北は山王には勝てないだろうし、そもそも三井襲撃で詰んでいるだろう。湘北消滅までありえたはずだ
しかし、ダイヤのAでもし沢村がスカウトにひっかからなかったとしても、それはそれで青道は青道の物語をやるのだと思う。
甲子園には行けないかもしれないが、行けるかもしれない。
「主人公を中心に物語世界が回る」という暗黙の了解は、特にスポーツ漫画なら常識だと思うが、ダイヤのAはそこが妙に薄い。
初めて読んだとき、「主人公がいてもいなくても、極論、かまわない作りになっている」と感じた。
これが違和感の正体その①である。
なぜそんな状況になっているのか。
分析してみたところ、理由はだいたい次の三つだ。
-
青道が強豪校だから
ダイヤのAの特徴としてまずあげられるのが、「弱小高の成り上がり物語ではない」ことだろう。
もちろんいろいろバリエーションはあるが、チームスポーツ漫画における主人公高校の定番は「部員数が少なく、設備もあまり整っておらず、近年勝てていない、どちらかというと無名の高校」だろう。3年に強い人がひとりふたりいるとかそういうことはあるにしても、開始時点のパワーランクは中の下で、強豪に挑みかかる弱小、という構図が王道となる。
キャラクターの成長や、まだ1年である主人公がメインで活躍する動機付け、ジャイアントキリングの爽快感、敵のスケール感の提示などに便利なセットアップだ。
弱小が優勝した、というところで落ちもつけられる。
ちなみに、作中でこれをもろに活用しているのが薬師高校であり、後述する第三の理由にもかかわってくる。
「野球留学をしてまで強い部員をひっぱってくる強豪」が主人公校であるダイヤのAの特異な点である。
青道高校は野球の名門として有名な高校で、部員数は100を超える。そんな中で背番号を貰えるのは、たった20人だ。
野球をするための設備はばっちり整っており、外部から技術コーチも呼べる。
野球部専用の食堂や寮もあり、作中で野球部の面々に歓声を浴びせる同級生たちもみられる。
つまり、青道は「ほっといても代わりが補充される」高校なのである。
「野球をやりたくてたまらない、中学でトップレベルだった連中」がひしめきあう中、限られた枠を競い合わなければならない。まるで出世競争だ
主人公である沢村が入ったのはそういった環境であり、極論沢村が投手としての道を少しでも諦めたら、新たに入ってきた誰かがわれもわれもとその座に座り、そいつが主人公になるだろう。
というか、降谷の物語にシフトチェンジするだろう。
沢村栄純がダイヤのAで主人公としてやっていけているのは、ひとえに彼が「諦めなかったから」である。
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降谷暁がいるから
これは物語的にも指摘されている。
降谷暁とは、沢村と同じ年に青道に入学した一年生ピッチャーである。入部当時からずば抜けた豪速球を持ち、「エース不在」といわれた投手日照りの青道に現れた「怪物」一年生だ。
球速は入学当時で140キロメートル超え、守備に不安はあるものの、打席に立っても長打を飛ばす。ちなみに、高校野球における平均球速は120キロメートルと言われている。
それに対し、入部時の沢村の球速は130キロメートルに満たず、守においても打においてもパッとしない。
降谷が入部してすぐに一軍に昇格したのに対し、沢村が一軍に上がるのは5巻。
次々に怪物として認知され、プロからも注目を集める降谷に対して、沢村は基本二番手である。怪我したか、疲れている降谷のカバーのために登用される、ということも多い。
「降谷暁がいる限り、お前がエースになることはない」と先輩から直々に言われたこともあるし、途中から出てきた技術指導の落合コーチや片岡監督、野球部の面々さえ、「沢村がエースナンバーをもらえる」ということを、少なくとも途中まで、本当には信じていなかったのではないかと思う。
投手不足の青道に入ってきた期待の新星、という絶好のポジションは降谷にはじめからかっさらわれているのである。
業績をぐんぐん伸ばしていく同期と、それを追いかける同部署の社員、という形になる。
能力が足りずにベンチに入れない部員たちがただでさえ何人もいる青道において、二番手の投手というのは珍しい存在ではないのだ。実際、沢村が一年で活躍の場をもらえたのは、その年の青道が投手不足+エースの丹波さんが怪我で退場、というイレギュラーがあったからでもある。あとクリス先輩。
特大の問題児でも、たった一人の原石でもない「二番手」というポジション。
このポジションの絶妙さもまた違和感の要因であろう。
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メタ的にもともと沢村以外が主人公だったから
これはちょっと番外的事情になる。
もともと、「ダイヤのA」は「橋の下のバットマン」という読み切りから生まれた。
正しく言うと、「橋の下のバットマン」の読み切りの設定にあった青道高校という敵高を主役にしたのが「ダイヤのA」なのだ。「橋の下のバットマン」の主人公校は薬師高校であり、主役は轟雷市である。
つまり、沢村は源流の主人公ではない。
その読み切りの主人公校は、青道のライバルの一つとして、設定を変えつつも本編に登場する。
ちなみに、ダイヤのAという漫画の名前を知ったのは5chのまとめスレからである。暇なときにざーっとまとめスレを眺めていたとき、詳細は伏せるが、轟雷市がやたら贔屓されていてヤバいという内容のまとめがあった。アイドルマスターが好きでもあったので、「贔屓」「ゴリ押し」「お気に入り」という言葉があると、つい気になってのぞきに行ってしまうのである。
アイドルマスターの歴史は資本主義の歴史だ。
だからダイヤのAの第一印象は「轟雷市が贔屓されている作品」だった。5ちゃん特有のやたら厳しい贔屓判定
読んだ所感として、それはそこまで間違ってもないが、正しくもない。
確かにリアリティラインはちょっとおかしいと思う。雷市の特訓方法は現実味のあるトレーニング描写を積み重ねるダイヤのAにおいてかなり漫画的な方であるし、投打ともに優秀、というのは主人公の名残がある。エースピッチャーの真田は「御幸枠」としてひときわ目立つ顔面をしているし、親父の雷蔵もキャラクターが濃い。
また、薬師高校はいかにもスポーツ漫画の主人公校のような設定である。番狂せのジャイアントキリングを成し遂げつつ上へ昇っていくストーリーラインは王道で、いわば主役がもう一つあるような構図なのだ。
薬師高校は作者にとって、おそらく準主役に匹敵するのだろう。
ただ、そうはいっても全体的にはストーリーラインを捻じ曲げるほどの贔屓されぶりではなかったように思う。負ける時は負けるし、雷市は化け物でも欠点があり、打ち崩される。「こいつら好きじゃないな」と思う人ならちょこちょこ辛いだろうなという感じだが、主人公は青道であり、沢村である。そのラインはぶれてはいない。
長々と記したが、これらのことが「主人公は作品世界の中心である」ことに馴れきっていた私にとって、特に新鮮な違和感となって襲い掛かってきた。
この違和感は、おそらく既存読者にとっても無意識のうちに蓄積されていったはずだ。
その蓄積が、時にマガポケコメントなどで冷遇だ冷遇じゃない贔屓だ贔屓じゃないの論争を巻き起こしていくのは、また別の話である。
これが初め感じた違和感だと思う。
そして、全体を通して、私はダイヤのAに「なんか変な漫画だな」と思った。
具体的な理由は
- 煮詰まらない人間関係
- デフォルトじゃない美形
- 人間臭いキャラクター
- 体育会系のセリフ回し
である。悪口に見えると思う。
しかしここにこそ「いいな」と思う理由がある。
これから「変」だと思った上述の理由を一つずつ解説していこうと思う。
煮詰まらない人間関係
スポーツ漫画の華といえば、人間関係である。
野球漫画というくくりだけでいっても、近年は「忘却バッテリー」「ダイヤモンドの功罪」「群青にサイレン」など、競技を通した人間同士の、焦燥感や劣等感のせめぎ合い、感情のぶつけ合いを楽しむ漫画が多くある。古くは「おおきく振りかぶって」、あさのあつこの「バッテリー」なども有名だ。
ダイヤのAも例に漏れずあちこちに「関係」が生まれているのだが、これもまた少し独特な味がする。これは後述の天才論にも関わってくる。
基本的に、ダイヤのAにおいて、「二者間のドロドロとした愛憎関係」は稀な存在である。
これは、基本的にダイヤのAがチーム志向だからであろう。ワンマンチームはほぼない。
主人公校である青道は特に、二者間の関係がどうしようもなく煮詰まる、みたいなことは起こりづらい。
青道というチームでは、主に監督という大人が指導し、キャプテンや三年、先輩が下級生を束ね、同期と研鑽を重ねる。
個人的に仲のいい先輩や同期にくわえて、同じポジションの先輩だったり、同室の先輩だったり、とにかくさまざまな側面で人と関わることになる。
食堂でのコミュニケーションの時間、寮生活におけるコミュニケーションの時間も大きな位置を占める。
それもまた会社のようである。一般的な部活ものにおいて、ここまで多くの時間をチームメイトと共有することはそうそうないだろう。
青道野球部という部活を組織ととらえるなら、その構造はこうなる。
これは沢村1年時の図である。
ざっくりとした分類をするなら、おおむね職能組織と呼んでいいだろう。
『機能組織ともいう。生産,販売,財務,人事といった企業にとって基本的な職能をそれぞれ一つの部門にする形で編成された組織。』-コトバンク
投手、捕手、外・内野手で別れつつ、各職能ごと、各学年ごとに情報と技術を共有し、主に監督が全体の指針を示す。
意思決定の流れとしては監督→チームのトップダウンが基本だが、現場で戦っているのはあくまで選手であるという一線は守るのが青道の方針でもある。
現場のまとめ役は主にキャプテンが行う。
不完全な図だが、これだけでもなんとなく青道の組織構造の雰囲気はわかると思う。
誰かとだけ集中的に関わることが不可能な仕様になっているのだ。
学年別の関わりもあれば、ポジションごとの関わりもあるし、投手であれば捕手陣とは特に緊密な関係を築く必要もある。
1軍全体、というまとまりも、2軍・3軍の思いを背負っている分だけ強固な、特別なものになっていく。
これにプラスして、同室か否か、同クラスか否か、個人的な友人か否かも複雑に絡んでくるし、2軍の先輩や友人との関わりも頻繁にある。
ベンチ入りメンバーだけでもいろいろなグルーピングができるのである。
朝から晩まで部活をし、寮生活をする青道だからこその構造でもあるだろう。
書いていて思ったが、私がたとえ男でも絶対に入らない。もはや一つの社会だ
だから、青道で二者間の揉め事が二者間だけで完結することはほぼないと言っていい(どちらかが頑なに黙っていれば別だが)。そこには他の誰か、第三者が関わってくるからだ。
もちろん緊密な二者間の繋がりは作品内に存在するが、基本はより大きなまとまりに包括されている。
なんとなくこれがジャンプで連載できないだろうなと思わせる理由の一つだ。
人間関係が煮詰まりづらい。
デフォルトではない美形
基本、私は萌え目的でアニメ・漫画を見ている。
キャラクターを気に入れたり、好きになれるカップリングがあればいいなという思いとともに見始める。性別の比率が偏っている作品なら特にそうである。
マリアさまがみてるを今から見る人間に「百合なんか興味ありません」という奴はいないし、いたとしたらフカシ以外の何物でもない
ただ、ダイヤのAに萌えを見出せたのは、相当後になってからだ。能動的に萌えにいかなければ萌えに気づかない、もしくは天啓がなければ気づかない、そういう作品だ。
同人人気の高いスポーツ漫画においては、かなり珍しい事態である。
その大きな理由にはビジュアル面がある。これ萌えていいやつなのかな?という疑念が湧いてくる画面なのだ。
ダイヤのAの中央値は美形ではない。
黒子のバスケ、ハイキュー!!、テニスの王子様、灼熱カバディ、スラムダンク、ブルーロック、最強の詩などの作品は、中央値が美形だ。
チーム内に「そうでもない枠」みたいなビジュアルが一人いても、まあ整っているのが常態で、強い敵校は「物凄い美形」としてビジュアル面からも圧をかけてくる。
そして読者からも大体人気が出る。
わかりやすい例で言うと、黒バスのキセキの世代、ハイキュー!!の及川や黒尾、テニプリの跡部や幸村などだ。
だから敵校キャラ×主人公校キャラのカップリングが流行るのである。
(ちなみに、黒子のバスケは腐人気漫画としてよく揶揄されるが、スラムダンクも同人人気はかなりのものだった。それはやはりビジュアルの強さが影響していると思われる。湘北ひとつとっても、作中トップクラスの美形の流川や、小ぎれいな顔をしている三井、けっこうな男前の花道が一チームに固まっているのだから当然である)
しかし、ダイヤのAの中央値は「美形」ではない。
目が微妙に小さかったり、鼻が大きかったり、顎がでかかったりという身体的特徴が目立つキャラがメインに頻繁に出てくる。三白眼のキャラクターが多いのも特徴だ。目や髪型の描き分けで個性をつけるのではなく、骨格から差をつけるキャラクターデザインも影響しているだろう。
球児ということもあると思うが、すらりとしたキャラはあまりいない。全体的に下半身がどっしりしている。
特に敵校。
コンプレックスを抱いた進学校のひねくれ選手だったり、まだまだメンタル面が未熟でガキっぽいが才能のある長身投手だったりという、スラっとした美形にすればわりと「ああ、そういうね」となるキャラクターを当然のごとく美形にしないという感覚。
基本が面食いの私にとって、これはちょっとした衝撃だった。
仮面ライダーでさえその時代のえりすぐりの美形をチョイスする現代において、こんなことがあるのかよと。
思えば、少年向けであるジャンプ系統と、青年向けであるマガジン系統の違いでもあるのだろう。低年齢層のルッキズムは率直である。
かつて跡部の断髪で何個ものファンサイトが閉鎖したことも考えると、美の与える経済活動への影響は計り知れないものがある。
すっかり美と、それが生み出す資本主義に馴れきった身に、ダイヤのAのキャラクターデザインは新鮮なものがあった。
ただ、そうはいっても青道の顔面偏差値は他と比べても高めであることが作中で指摘されている。実際、沢村・降谷・春市の一年一軍昇格メンバーはアイドルグループにしてもギリギリ納得できるようなかわいい顔をしているし、御幸は作中でもさんざんイケメンであることが言及されている。仏像のような顔をしている青道のバッターに対して(こいつ一人で青道の顔面偏差値下げまくってね?)と内心思っている奴もいる。酷いだろ
(そして、actⅡからは全体的に美形がふえてくる。時代は変わるものである。)
よく、基本が美少女の世界において「学園一の美少女」とか言われても違いがわからない、という話が持ち上がるが、ダイヤのAにおいてはそうでもないといえる。
青道の御幸、鵜久森の南朋、薬師の真田。
前述の薬師贔屓感についても、真田の男前がかなり影響しているように思われる。デフォルトが美形でない世界における美形は、特別な意味を持つ存在なのである。
寺嶋先生はファンブックにおいて、「男前を書くのが難しい」と語っているのもあり、おそらく作者にとってのデフォルトは美形ではないのだろう。
個人的にスラムダンク一番の美形は藤真ではないかと思う
人間臭いキャラクター
というか、野暮ったい。goo辞書で調べると、
言動や身なり、また、趣味などが洗練されていないさま。
と出る。完全に悪口に聞こえると思うが、私はダイヤのAのキャラクターが全体的に「洗練されていない」ことが結構好きである。
洗練されていない。それは、キャラクターたちに「隙がある」ということでもある。
ギャグシーンがかなり頻繁に挟まるのもそれに拍車をかけていると思うが、いじっちゃいけないようなキャラクターが基本的に登場しないのである。
例えば、クリス先輩。この人は沢村の師匠であり、恩人なのだが、序盤の彼はめちゃくちゃ沢村に対して塩対応だった。あることがあってからつきまとってくるようになった沢村を毎回すげなくあしらうのだが、ふとその攻撃はおさまる。それを受けて、「ちょっとだけさみしいクリス」という説明付きでとぼとぼと歩く姿が描かれる。私にはこの描写がちょっとしたショックだった。
あれだけシリアスな雰囲気を漂わせていたクリス先輩が…..という衝撃。
さみしいんだ。
actⅡで出てくる奥村光舟というクールな少年も、事あるごとに御幸や沢村に対して対抗心のような、焦燥感のようなものを前面に出すのだが、それは「グルルルルル」というオオカミの鳴き声にたとえられて描かれる。
これは作風としか言いようがないことだと思うが、どんなキャラクターも基本的にシリアス一辺倒ではない。
そして、「キャラクター」でありつつ、妙にリアルな人間性が垣間見える。
哲さんが将棋が下手であったり、楊瞬臣がユーミンを聴いていたり、御幸がマイ枕を持っていたり、成宮が女子に告られて喜んでいたり、本郷が時代ものっぽい本を読んでいたり。
「あ、そうなんだ」としか言いようのない、細かな、言ってしまえば本筋に関係のない描写が、キャラクターたちに地に足のついた実在感を与えている。
楊が何を聴いていようが本当はどうだっていいのだが、それでもこの描写があることで、なんとなくキャラクターに親近感が湧いてくる。
あ、人間なんだ、という感じに。
なんというか、絶妙な距離感が読者との間に生まれていると思う。
(これは余談だが、ダイヤのAに割と外国出身、または外国の血の混ざったキャラクターが出てくるのは先生の実体験というか、取材の結果なように思う。スポーツの世界ではそんなに珍しくもないことなのだろう)
また、細かな言葉遣いや、他者とのコミュニケーションの方法において、どのような家庭でどういう風に過ごしてきたのか、がなんとなく伺えもする。
そしてそれがまた絶妙に現実味を帯びている。
例えば、御幸とナベの間のすれ違いだ。
ナベこと渡辺久志は3年に上がり、部活に対しての周囲との温度差に悩んでいた。努力をしていないわけではないのだが、スタメン入りのメンバーたちがそうであるようには野球に取り組めない。この状態のままチームにいてよいのだろうか、という煩悶を抱えたナベは、ある時御幸にぽつりと本心をこぼす。
「ここへ来てみんなとの意識の差を感じるというか…。」
「ここでの3年間を覚悟してきたつもりだけど..なんか..」
それを受けた御幸はこう言う。
「それって..部を辞めたいってこと?」
「ナベが心底この部にいるのが苦痛で、受験勉強に専念したいっていうなら俺は止めないよ」
「自分の意思で辞めるって言う人を 俺には止めることはできない」
ナベは(ち、違う…..そうじゃなくて…..)と思いながらも、結局そこで会話は終わってしまう。
御幸は「ナベは部活を辞めたがってるんだな」と思ったまま、それをチームメイトに相談し、またそこで御幸の回答に対するひと騒動が巻き起こる。
副キャプテンである二軍上がりの前園は、御幸の言い分を「ナベが辞めてもどうでもいいってのか」みたいな方向に受け取り、激昂するが、御幸もまた意見を変えない。
そして、そのもめごとは後の試合にまで影響することとなる。
これは物凄く既視感のあるすれ違い方だった。
というのは、このすれ違いは本当に微妙な「言葉と言いたいことのズレ」、そして「そもそもの考え方のズレ」から生まれているからだ。
ナベは別に、「部活を辞めようと思ってるんだけどどう思う?」と相談したわけではない。
「最近周りと温度差を感じてるんだ、でも自分なりにできることをやるしかないと分かってはいて、でもやっぱり一軍のみんなみたいには思えてないなって、だからこのままだったらチームのみんなにもしかしたら迷惑をかけるんじゃないかって」的な、いわば自分の中にあるもやついたものを共有したかっただけなのだ。
それに対して、御幸は「ナベは部活を辞めたいと思っていて、キャプテンである俺に意見を仰いでいる」と捉えた。早とちりだ
御幸が結論を急いだのは、そもそも彼に、「メンタルのモヤモヤを誰かに相談する」経験が薄いからだと考えられる。
御幸には兄妹がいず、あまり父親に心配をかけまいとしている様子もうかがえ、また友達もあまりいなかった。
優秀で頭もよく、判断が早い。
自分で解決できる範囲の煩悶は基本的に自分で解決してきたのだろう。
感情の処理が自己完結的で、それに時間を要するタイプや、いくつかの壁を超える必要のあるタイプにあまり共感できない。
結局のところ自己解決するしかないし、嘆いても結果は覆らないことを知っている。
早熟な子供にありがちなことだと思う。
また、この自己完結性に怒った前園も、私はああやっぱり高校生だわと感じた。別に御幸は「ナベが辞めてもどうでもいい」と言ったわけではなく、「辞めるか辞めないかは個人の自由」と言っただけだ。
要は、優秀かつ隙をあまり見せない御幸に「俺はナベに辞めてほしくない」と言ってほしかったのだと思う。
仲間なんだから辞めてほしくない、と前園は当然のように思っているし、それを御幸にも思ってほしかった。
1軍にいた御幸にだからこそ、1軍に入ろうと思ってもできない人たちの気持ちを汲み取ってほしかったというのもあるだろう。前園の怒りは、自他境界の曖昧さを自覚できていないゆえのそれでもある。ただ、あまり責められもしない。
自分でも本当に思っていることを理解するのは難しい。
この相互的なすれ違いの空気感。
これを切り分けることは当事者には困難極めるだろう。岡目八目
御幸に限らず、ダイヤのAのキャラクターはあくまで現実にいる子ども(青年に差し掛かっているとはいえ)の未熟さをベースに描かれていると感じる。
自分の言いたいことを自分でもよくわかっていないまま話してしまったり、
言いたいことがちゃんとあるのに言語化をミスったり(そしてそれを取り返せない)、
大人に理想を抱いてその反動で「大人なんて信じられない」的に突っ張ったり。
「ああ、こういうのあったなあ、というか今もなくはないな」という気持ちになることも多い。
前述のナベが辞める辞めないの問題は、結局彼の片岡監督との話し合いによって一応解決するのだが、これもまた現実的だと思う。
また、個人的に好きな点として、コミュニケーションに問題のあるキャラクターが基本そのまま突き進む点がある。
本人が自発的に変わろうとすることはあるが、そうでなければ大体そのまま放っておかれる。
「こいつこういうとこあるよな」というままだ。
こういうやつだけどまあ何とかカバーできるからそれでいい。
そのおかげで不和があっても、「まあそれはそれとして」と野球に戻る。
薄情だともとらえられなくはないが、私は懐の深さを感じる。
たとえ通常のコミュニケーションがどうもうまくいかなくても、野球がある限りそこには何か共有できるものがある、という事実が、野球の与えてくれた情のようにも感じられるのだ。
彼らにとって野球は一つの居場所なのだということがなんとなくわかるし、その場所に愛着のある人が描いているんだなと思った。
個人的に、故障して競技をやめる未来ifや、野球をしていないパロものの二次創作がちゃんと受け入れ難い稀有な漫画だ。でもアイドルパロは見たい
体育会系のセリフ回し
また、文系として気になるのはセリフ回しである。
好きな漫画かそうでもないか、という判断に割に深くかかわるのがセリフ回しだ。
どこの漢字を開くか、どこに読点を入れ、何を「カッコいい決め台詞」と扱うか。
この部分の感覚で、漫画そのものと気が合う合わないがわかる。
ジャンプスポーツ漫画を例にとる。
黒子のバスケは「俺のシュートエリアはコート全てだ」「お前の光は淡すぎる」「僕に逆らう奴は親でも殺す」、
ハイキュー!!は「バレーは常に上を向くスポーツだ」「負けは弱さの証明ですか?」「今これからもバレーボールだ」
あたりが、「それぞれの作品の決め台詞」として有名な、わかりやすい例だろう。
ダイヤのAのセリフ回しは技巧的ではない。
凝った比喩や文学的な香りのする言葉選びはあまりないし、「まあ高校生ならこういうこと言うだろうな」という範疇のセリフがほとんどだ。
特に初期は、「というか」をかなりの確率で「とゆうか」と書いたり、台詞の語尾に(笑)(怒)をつけたり、キャラの心情を💦付きで説明するメモ書きが出てきたりといった、いかにも平成初期の雰囲気が全体に漂っている。真田の口癖が「激アツ」なのは、初見のとき「パチンコみたいだな」と思った
ただ、だからこそその飾りのなさ、良い意味での垢ぬけなさには心惹かれるものがあった。
主人公の沢村がなにかと古風な言葉選びをするのもあり、不思議な安心感のようなものさえ感じる。
中高生が局地的に時代な言葉遣いをするのはなんとなく納得できる。普段本を読まない人でも時代小説は読んでいることがあるし、家庭で流れている時代劇を見たりしているのだろう。無頼伝涯の涯くんが三国志を読んでいたようにだ。
インターネットが世に根付いた現代において、言葉選びとは時にその人物の属する価値観を顕著に映し出すものである。
どのような媒体に普段触れており、どのような考えに親しいのか。
どのような文章表現を好むのか。
人と話すより文字を読む時間の方が多い人間には、そういうところが妙に気になってくる。
時には、キャラクターを飛び越えて作者の言葉選びが前面に出てきすぎているという漫画もある。「これあそこで仕入れてきた語彙でしょ?(冷笑)」となる。
ダイヤのAに関してはそれがあまり感じられなかった。
本当は冷笑なんてしたくないんだ。
これは嘘である。
また、巧みに響かせようと狙いすぎている台詞は、逆張り人間にはかえって逆効果になることもある。
「別にそこまで大したことじゃないでしょ」と白けるような、斜に構え過ぎて文化祭を楽しむタイミングを逃す私のような人間にとって、斜に構える必要のないダイヤのAのセリフ回しは比較的印象が良かった。
また、ついでに書き文字にも言及しようと思う。
ダイヤのAでは、唸りをあげて向かってくるボールの効果音として「んゴォ」という筆文字がよく使われる。これは登録されたフォントではなく、書き文字である。オノマトペといえばひらがな一色かカタカナ一色になるのが通常だろうが、このオノマトペはひらがな・カタカナ混合で、絶妙に印象に残る。
この全体的な飾りっ気のなさ。
こっちが斜に構えようと思っても、できない。
構える気がなくなる。
また、この飾りっ気のなさはギャグシーンにも良い色付けをしていると思う。
個人的に、「ギャグに白けないか」は漫画に対する好感度を測る正確なバロメーターだ。ダイヤのAのギャグシーンで「もうそのノリいいわ(笑)」となったことはあるが、「もうそのノリいいわ」となったことはない。
ちゃんと微笑ましく見守れる。好感度の高い友達の定番ギャグは飽きても楽しい
これらの理由が、ダイヤのAを「変」と感じた原因である。
10年代のジャンプスポーツ漫画に慣れきった目に、このマガジン漫画はいろいろとセオリーに反した漫画と思えたのだ。
人間関係は二者間の因縁を愛憎付きで、
キャラクターはできるだけ尖らせ、
ビジュアルは基本的に美しく、
台詞回しはギュッと締める。
私の「普通」は限られた範囲の、極めてローカルな物」だったんだなと思った。
それに気づけただけで、この出会いに感謝したい気持ちがある。
これ以降はダイヤのAに関してより個人的に好ましかった事象を語っていこうと思う。
ここからはさらに偏った意見になっていく。
負の念の取り扱い
スポーツ漫画に特段のこだわりはないが、それでも好きかそうでもないかを分ける個人的な価値基準はある。
それは「かわいそうであるかどうか」と、「才人をどう描くか」だ。
まず、キャラクターの「辛い、苦しい」を前面に出してこられると、そこまで好きではなくなる。
というのは、私がスポーツ漫画に求めているのは(そしてキャラクターに求めているのは)、私のような人間の想像を超えてくれることだからだ。
かわいそうだと思わせないでほしい。
私が共感できる苦しみや、劣等感や、嫉妬は、別にそこまで気合を入れて描かなくていい。
あくまで見たいのは、それを乗り越える強さだ。
メソメソしていても、そのメソメソを背負って開き直るならそれはそれで大好きでもある。バンドリの高松燈みたいな。
その点でダイヤのAはかなり高得点である。
仙泉の真木や、王谷の豪ちゃんなど、強豪である青道にコンプレックスを抱いてくる敵は何人か現れる。
真木は「本当は青道に入りたかった、なんであいつらが一年でベンチにいるんだよ」と苛立ち、その怒りを抱えながらマウンドに立つ。
私立の進学校である王谷の豪ちゃんは、日本中から強い選手を集めて練習させる青道の
やり方そのものに反感を抱いており、それを自分たちの野球で突き崩そうとする。
これはかなり鬱々としそうな予感があった。妬みや強豪への対抗意識を煮詰めようと思えばいくらでもできるし、そこから恵まれる恵まれないの話にも展開できる。
しかし、真木は最終的に「チームは自分を必要としている」ことに、仲間や監督からの声掛けによって気づき、自分の臆病さを直視し、これまでの姿勢を悔いる。
自分は青道に選ばれなかったのではなく、自分が青道を選べなかったのだと。
「もう俺はこのチームの一員だったのに、俺だけいつまでも引きずってしまっていた…..」と思って涙を流すのである。
もっと引きずるやつだっているのに。
王谷の豪ちゃんは、自分たちの戦い方を貫き通して負け、「よく戦ったとか言うなよ。結局…最後は力負けなんだからな..」と素直な表情で泣く。それを監督は受け止め、あえて何も言わない。
「この負けに1ミリでも満足してたら 上にはいけねぇ」と噛みしめる豪ちゃんは、きっとこれからも自分たちの戦い方を模索し続けるだろう。
そしてそこには「青道へのコンプレックス」ではなく、「自分たちの野球への意地」が強くある。
コンプレックスがあったとしても、それを乗り越え、前に向かうことが当然のように良しとされ、描かれる。
そういう但し書きのない前向きさが良い。
そして二番目。才人の描き方だ。
天才と秀才、優秀なものとそうでもないもの。スポーツ漫画において、「持てる者へのどうしようもない劣等感」と、「持てる者の孤独」はよく扱われるテーマである。
才能がある人間はどうふるまえばいいのか?
凡人が抱く天才への嫉妬はどう扱えばいいのか?
それだけで作品のテーマになるホットトピックと言える。
ダイヤのAにおける天才、「優れた人間」の特徴は、「罪」とか「業」のようなものを背負っていないことだと思う。
「背負う必要がない」という考え方が根底にあるのだと思われる。
周りから孤立をしているはしているのだが、本当の意味で、周りに誰もいなくなることはない。誰かがその頑張りを見ていて、
「あいつばっかりに苦労させてちゃダメだ!」
「支えてやらねえとな…..!」
となることがほとんどだからだ。
もし天才が独断専行しそうになっていても、チームメイトは基本
「クソっ!俺たちがもっと頼りになる存在にならないと…..!」となる。
拗ねない。恨まない。
私はこの描写を見るたびにちょっとびっくりする。
ちょっとズレていたり、コミュニケーションに難があっても、それらだいたい「こういうやつだから」とチームからふんわり受け入れられるし、それが深刻な亀裂を生むことはない。彼らもチームを愛しているから、それをみんな知っているからだ。
また、才能に追いつけないでも努力をやめず、それでも届かなかった人間たちは悔し涙を流すが、それは「才能によって踏みにじられる」こととしては描かれない。
「人の気持ちがわからない才人がそれ以外を踏み躙る」という風な描き方はほぼされない。
そういう風に運べそうな作劇でも、そこからぐっと逸れる。
才能と勝者につきまとう悲劇の匂いが、極端に薄い。
主人公である沢村と降谷の関係がもっとも象徴的だ。
沢村は狂わないし、降谷はただそこで研鑽を続ける。
そして二人とも、先輩である川上や丹波さんを素直に尊敬し、先輩たちも彼らを支える。その優秀さに気後れをすることがあっても、最終的には自分なりの努力を積み重ねていく。
これはとても健全なありかただと思う。
圧倒的な光によって打ち砕かれる、みたいな構図というより、どちらかというとさんさんとした光によって力強く育つという感じだ。
作中のトップクラスのピッチャーこと成宮鳴は「孤独な太陽」という代名詞を背負い、その球は絶望を呼ぶ投球と銘打たれているものの、作中で彼のもたらす絶望は決して絶対的なものではない。
それに絶望したままのものもいれば、奮い立つものもおり、そこには完璧な絶望は存在しない。
「できない」人間の劣等感や苦しみは、本来、「できる」人間のせいではないし、そこに「罪」はない。
「罪」がないから、謝る必要もない。
劣等感にフォーカスしないことが意図的かどうかはわからないが、そういう作劇になっていると思う。
それが独特で、好きな理由の一つだ。
私は人の嫉妬心や劣等感、罪悪感にやたらに寄り添おうとする漫画があまり好きではない。
その寄り添いで私がマシな人間になると思えないからだ。私のような人間は諦める理由なら無からでも作り出せる
嫉妬する時間、それを「仕方ない」と慰める時間、人を嫌悪する時間。または、「自分は許されてもいいのか」と考える時間。または、「自分は選ばれなかった」と苦悶する時間。
それはあっても無理はないが、そこに耽溺するようになったらどこに進むこともできないし、時間は止まらない。
描く人が描けば地獄になるが、ダイヤのAに地獄はない。
ただそこに努力した時間と、その結果が横たわっているだけだ。
また、私は「個人の努力した時間」には等しく敬意を払ってほしいと思っている。特にスポーツ漫画においては。
何よりもキャラクター自身に、自分の努力に敬意を払ってほしい。
光輝く才能があって、それに打ち負かされたとしても。
自分の手で自ら凡人の希望を打ち砕いたとしても。
絶望するよりも、自分の意思に応えようとしてくれた筋肉や神経、それを作るために費やした時間を、何よりも自分が、まず敬うべきだと思う。
たとえその瞬間は絶望しかなかったとしてもだ。
自分の努力を「天才に踏みにじられるだけの無駄な時間だった」と考えたら、それこそ無駄にしかならない。
自分の努力を「凡人を絶望に叩き落とすための時間だった」と定義してしまったら、自分を認められるわけがない。
そういう考え方をしたら、負けた数多の人々、そして自身の努力、才能もまた、蔑むべきものにしかならない。
自分が積んできた時間を自ら「努力さえ無駄にしてしまう才能」などというものの踏み台にしないでほしい。
そしてそのように描かないでほしい。
自分の尊厳は自分で取り戻すべきなのである。たとえそれが無理矢理でも、自分に対して果たすべき責任だと思う。
個人的に、黒子のバスケの青峰がグレたのは、練習しない・相手を敬わない、しかし勝ってしまうことに自分自身が耐えきれなくなっての反動だと思っている。おそらく紫原もこれに近い。
「努力はするべき」だし、「勝負には真剣に、敬意を持って臨むべき」だと内心思っているから、現実との齟齬に苦しむのである。
「練習もしていないのに他人を打ち負かすことのできる自分」と「打ち負かされて苦しむ他人」という虚しさ、その罪悪感、その現実の尊敬できなさに耐えきれなくなった結果があれだ。
緑間があんまり病まなかったのは「練習していて、人事を尽くしている自分自身」を自分で認められていたからだと思う。あと図太いから
問題なのは「天才」や「才能」それ自体ではなく、自分自身を尊敬できないことだ。
天才に狂わせられる、という事象は正確には存在しない。
「自分が」諦めたのだ。
そう言われているような気がした。でも多分ダイヤのAにそういう意図はないと思う。
オーイシマサヨシの理解度
オーイシマサヨシはアニメ版の主題歌を何回か担当している。正確に言うと作詞や歌唱を担当した楽曲が何回か主題歌になっている。
主題歌の歌詞に「解釈」はそこまで求めない派だが、このアニメにおいてのオーイシマサヨシの解釈には膝を打つところがある。
ダイヤのAは努力や勝負によって得た経験の話ももちろんするのだが、まず何よりも「勝つための勝負」と「それに挑むこと」を重要視している漫画だ。
オーイシが作詞・歌唱を担当したOxT名義の楽曲、KIMERO!!の二番にこういう歌詞がある。
「百万回の失敗を oh 百万一回の希望を
その度開かれてく未来
負けるための努力などない
あの頃知った傷も 胸を締め付ける記憶も
すべてはこの瞬間のため
さあ 勝負を仕掛けろ My Dream」
とんでもない歌詞だ。
「負けるための努力などない」
「すべてはこの瞬間のため」
実に留保のない言葉。
こんな全ベットの覚悟を私が持つことは一生ないだろう。
「瞬間優しい声が 慰めのように頬かすめてく
『結果だけがすべてじゃない』 そんなことわかってるけど
人生には一度二度 ここぞという場面がある」
オーイシ…..。
(涙)
オーイシはこう言っている。
全力を出して戦う者達に必要なのは負けへの慰めではなく、勝つための覚悟なのだと。
砕け散ったあとの心配は、砕け散ったあとすればいいのだと。
君の勝負はどこまでいっても君の責任であるべきなのだと。
それを言い切ることがどれだけ難しいか。
この曲を最初聴いたとき、私が感じたのは深い尊敬だった。
オーイシマサヨシ、素晴らしい。
余談だが、ダイヤのAのキャラソンは「ああ、キャラソンだな」という感じの自己紹介ソングで、そこまで凝った作りではない。黒子のバスケのキャラソンのクオリティの高さが異様なだけだと思う。
しかしなんとなくキャラクターたちがカラオケで歌っていて、チームメイトがそのつどタンバリンや手拍子を入れている、という情景が浮かぶので割と好きだ。
誰が歌ってもそれなりにみんな真剣に乗ってくれそうで良いと思う。賑やかしとして沢村が便利すぎる。
ちなみに、黒子のバスケの主題歌で好きな歌詞は、Can DoのAメロ「ねぇ 儚い自分演出したって誰も無感動」である。
野球のおもしろみ
私が初めて見た野球漫画は「おおきく振りかぶって」であり、その時はド素人以下の状態だった。
ストライクとボールの区別がつかず、キャッチャーがサインを出す必要性がわからなかった。ピッチャーが都度判断して投げればそれで良くないか?と思っていた。それだとキャッチャーが困る、という意見には深く納得させられた。
おお振りと阿部くんのおかげで私は捕手の重要性を知ったのである
ただ知ったのはそれぐらいで、いまだに何人で野球をやるのか、どうすればアウトになるのか、というところの細かい部分はかなりアバウトだった。
二遊間ってなんなんだ?だった。
一応、中学では吹奏楽部に所属して野球部の応援に行ったこともあるのだが、遠すぎてわけがわからなかった。
しっかりルールを覚えようという気になったのは、「ONE OUTS」を見てからである。
とある事情でお互いのチームがより高度な反則をしあう「反則合戦」という話があるのだが、これは正規のルールを知っておいた方がより楽しめる。
その時にようやく二遊間の意味と、アウトの取り方と、変化球の種類を知った。
リアル路線の特訓と、リアル路線の(漫画的大味を加えられた)投打がベースにある。
よって、実際の野球そのものを知れば知るほどおもしろくなるところがある。
個人的におもしろさを感じるのはやはり打者とバッテリーの心理戦だが、なんといっても軸になるのは変化球である。
ムービングにスプリット、カットボールにナックル、フォークにカーブにスライダーとほぼあらゆる球種が出てくるので調べることが多かった。調べないとカーブとスライダーがごっちゃになったりする。
ダルビッシュがYouTubeでカットボールの投げ方を解説していた時には、「変化球って本当に投げられるんだ」と思った。打者の手元でピンポイントに曲がる理屈が今一よくわからないが、実際の投手は感覚をつかんでいるのだろう。
個人的に好きな球種は、
- シュート
- ナックル
- スライダー
である。特にナックルはロマン砲だ
野球について詳しくなればなるほど試合で得られる情報量が増えていく。
これは楽しい。
単純に投手がなにを投げられるかだけではなく、その日の状態や打者のプロフィール、塁上のランナーやベンチの状態などを考慮に入れなければならないキャッチャーの役割の大変さも改めて知ったし、同時にそれが「面白い」ということもなんとなく理解できた。
リアル路線だからこそ、こちらもリアルを基調に考えることができる。
単純に試合観戦が楽しい、と思えるところもダイヤのAから得た収穫である。文脈や好きなキャラの活躍ももちろん目当てではあるが、それ抜きでも試合のおもしろさがある。
影の使い方や球の緩急の表現など演出面にとにかくキレがあり、息詰まる緊張感が画面からほとばしってくるようなのだ。
特にチェンジアップ(途中で減速する変化球)の演出は物凄い。
漫画でアトラクションにも似た楽しさを味わうことができる。
キャラクターについて
これからはキャラクターに対する当面の感想になる。個人的に言及したいキャラクターに絞ったので網羅的ではないが、いくらなんでも長くなりすぎるのを避けているということを言っておきたい。
沢村栄純:
スポーツ漫画の主人公は努力と愛嬌あってこそだと思っているが、沢村はまさにそうである。とにかく愛嬌がある。物事にまっすぐ立ち向かうし、感情表現も豊かだ。そして努力を怠らず、不遇な状況にあっても歩みを止めない。お前そんなんだとどこ行っても通用するよ。才能とかというより、物事に向き合う姿勢が至極真っ当だからだ。
とかく熱血系バカはひねくれたオタクから反感を買われがちだが、沢村はかなり広い人気を得ているように思う。単純に、とても頑張っているからだ。あーハイハイこういうタイプね…..と初見で斜に構える人もだんだん態度を軟化させ、イップスの際には本気で心配させてしまうほどのパワーを持つ。
降谷と比較され、相手からも基本舐められ、時にイップスにもなり、という状況の中でも腐らずまっすぐでい続けられるのは、「単なる純粋なバカ」ではない。尊敬すべき努力家だと思う。報われると知っていたら誰もが努力するだろうが、先の見えない中で努力を積み重ねられる人は少ない。こいつは毎朝パン屋並みの起床時間なのである。驚嘆しかできない。
またこいつの偉いところは、本気でうるさいところである。どこからその元気が出るんだよと思わせるほどちゃんとうるさい。だから倉持や先輩から雑に扱われていてもたいしてかわいそうでもない。
うるさいが結局受け入れてしまう。うるさいがうるさくなくなると心配だ。
一番好きなキャラというわけではないのだが、好きか嫌いかと聞かれたら大好きと答えられる良い主人公だと思う。
ベンチやブルペンでやたら騒ぎまくり、人を励ましまくるところを見ると、「生まれ変わったらこんな男になりたい」と思わせられる。こういう風に気持ちよく生きられたらな、と思いもするが、沢村の立場になってちゃんとなんとかできるかと言われると絶対無理なので、人には人の生き方があるんだなあとも思う。
ときどき政治家みたいな言葉遣いになるのは、長野の爺さんとの時代劇漬けの日常を思わせる。家の広さや振る舞いから見るに、たぶん結構な金持ちなのではないかなと思われる。こういう奴が市議会議員とかに立候補するといいのかもしれない。
もし沢村が「娘さんを俺にください」と言い出したら、一旦拒絶して、紆余曲折あり、流れで自分の亡き妻との思い出を語り、「よろしく頼む」と強く手を握りたい。そう思っている。
降谷暁:
スポーツ漫画のクール系ライバルキャラ、いわば「流川枠」であるが、あんまり流川ではない。というか流川じゃない。
クールというよりも、人間関係に慣れていない不器用な奴という感触がある。人と接するのを避けているわけではなく、むしろその逆で、人とコミュニケーションをとることを素直に喜んでいる。自分の剛速球を受け止めてくれる人物がいなかったため、青道に入るまでほぼ一人で野球をやってきた、とっぽい青年である。一人称は「僕」。
不遇の中努力する沢村に対して、怪物として鳴り物入りで活躍しまくるし、やたらリアルな方面の不器用さがあって言語コミュニケーションが下手なので、マガポケのコメントなどで結構叩かれがちだ。
その中でも、actⅡの約束割り込みはいまだに禍根を残している。沢村と御幸の投球練習の約束に割り込んで「受けてくれませんか」と頼み、御幸もまた「エース様優先な」と言ってそれを受ける。この展開はやたらと物議を醸したようで、マガポケのコメントが大荒れしていた。確かにこれには私も「おいおい、そりゃちょっと」と思った。
しかし、これにはちゃんと理由がある。
降谷は、甲子園準々決勝、巨摩大との試合に敗れたことを「自分の力不足」と捉えて責任を感じていた。巨摩大のエースピッチャーは本郷正宗といい、球速150キロメートル超えをたたき出す剛腕投手である。その試合において青道は塁にもほとんど出られず、2-0で敗れた。剛速球とスプリットを駆使する同タイプの投手対決に投げ負けた、ということが、エースである降谷にとっては「自分のせいでチームが負けてしまった」という傷になっているのだ。
その責任を引きずり、どうにかしてチームを勝たせることのできるエースになりたい、という気持ちが降谷を追い詰めている。そして追い詰められていることにも気づかず、他の人のことすら耳に入らない、という状態にあっての一言なのである。そして御幸もまた、その異変に気付いて球を受けることに決めた。誰が悪いというのでもなく、強いて言うなら御幸の茶化しグセが悪いという出来事といえる。いっぱいいっぱいになっているのが見えづらい少年なのである。
降谷はずっと、力でチームを引っ張るエースになる、ことを目指している。それは自分の名誉欲のためというよりも、チームを勝たせたい、という気持ち故だ。
「自分が日本一の投手になれば チームを日本一にできる」という彼の野球ノートの言葉はもっともわかりやすいだろう。
なんというか、チームと仲間に感謝しており恩返しがしたい、という気持ちは強く伝わってくるので、「おいおい」と思っても憎めない。降谷が叩かれていると若干、胸が痛い。こいつには悪気はないからだ。精一杯やっているからだ。
「何もせずただ黙って見てる者をすくい上げてくれる.. そんな世界どこにもない」
とは降谷のおじいさんの弁である(厳しいがその通り)。沢村が主人公の物語ではあるが、降谷は降谷で並行した人生があるのだと感じさせられる。好きなバックストーリーだ。
北国出身のよしみもあってどうにも肩入れさせられる。
言葉ではうまく伝えられない、沢村のようなムードメーカーにはなれないし、人の気持ちにも疎い。しかし、私は降谷のそういうところを結構気に入っている。こういうやつだっていていい。
というか、キャラクターは「おいおい」と思うくらいでいい。作劇上で欠点を丁寧丁寧丁寧に取り除かれたキャラはかえって心に刺さらないことが多いからだ。
個人的に、降谷の目指す「力でチームを引っ張るエース」が必ずしも否定されず、一つのあり方としてふわっと認められているのが気に入っている。それは悪ではなく、ただ違うだけだ。不器用で、自分勝手で、健気な奴である
好きな食べ物はかに玉らしい。北海道出身の面目躍如という感じか。
個人的に響けユーフォニアムの鎧塚みぞれとちょっと雰囲気似てるなと思った。
こいつのおっとりした雰囲気と沢村の愛嬌もあって、沢村と降谷のライバル関係は、桜木や流川のようなものとも、日向や影山のようなものともどこか異なる独特の様相を呈している。
二人はポジション的に争いはするけれども、人格的に気に入らない!とか、こいつムカつく!とか、定番のケンカップル的な要素はとても薄い。一緒に先輩のパシリに行ったりもする。
御幸が間に噛んでいるからでもあるだろうし、一年同士で苦労してきた仲間意識があるからでもあろう。海外旅行に行ってもそれなりに楽しくやっている様子が目に見える。この漫画全体の負の念の薄さがよく出たキャラ造形、関係だと思う。
御幸一也:
あらゆる意味で、この漫画のキーパーソンである。作中のポジションという観点からも、一般人気という観点からも、同人人気という観点からも。
2年にしてチームの正捕手、3年ではエースで4番、しかも美形。捕手として投手陣をまとめあげながら、キャプテンとして皆を導く必要もあるし、打者としても期待される。
沢村や降谷からはなにかと球を受けろ練習に付き合えと騒がれるし、読者からも沢村-降谷-御幸のトライアングルの中心人物として行動を注視される。台風の目のような男である
同人は冗談抜きで八割がこいつ関連のカップリングであるし、攻め人気ダントツトップのちょっと物凄い奴なのだが、個人的に私は御幸は攻めにあんまり向いていないと思う。かといって受けにも向いていない
天才で有能、イヤミで意地悪、性格が悪いがかっこいい。
ざっくり属性を列挙するとこうなる。こう並べるとそりゃ人気出ますわという感じだが、この箇条書きマジックから連想されるキャラクターに比べて、実際の御幸はかなり野暮ったい。
スラっとしてないというか、垢ぬけてないのである。
こういうポジションのキャラがメガネなことあるか?と思うし、イメージ動物がたぬきなのもそれに拍車をかける。
やたらと生活感があるし、初期の帽子ファッションはいくらなんでも高校生すぎる。お金も持っていない。黄瀬がモデルでおそらくかなり稼いでいたり、赤司が大企業の御曹司だったりするのとはえらい違いだ。出自が明かされるまでなんとなく一部で医者の息子説が優勢だったらしいが、彼は町工場の一人息子である。
また、性格に難があるイケメンは定番中の定番の人気属性なのだが、御幸の性格は私には「損な性格」と映る。
言うべきことをズバズバ言うから先輩からちょっと嫌われるし、いちいち人をからかうからいざというときに後輩に信用されづらい。数えられる範囲で3人以上から「こいつ苦手」「こいつ嫌い」と言われている。しょうがないところもある
本心を吐露しようという発想が薄いので、周りの人間からは「こいつ何を考えてんだろう」という目で見られる。御幸なりに精一杯言った言葉が盛大に逆効果になり、のちのち波紋を呼ぶことも多い。まあ自業自得な部分もあるのだが、もう少しうまくやれないもんか、という感じもある。そういう点で、御幸は降谷と似た不器用さを持っているといえる。
ただ、「逆効果だった」「ああ言うべきだった」というのは大体の場合結果論だと思う。
御幸は御幸スチールという小さな町工場の一人息子であり、忙しい父に代わって幼少期からよく家事を受け持っていた。母親は早くに亡くなっている(ダイヤのAにはけっこう母親不在の家庭が多い)。幼いころから忖度を知らなかったので、友達もあまりおらず、先輩にもものをズバズバ指摘し、ボコられてもいた。おそらく御幸はそのころから、俺は俺だし、俺一人で解決できることなら一人でやりゃいいやという感じだったのだろう。
個人的に、私は御幸について「基本的に穏やかでかなりポジティブ、ただ人の気持ちはあまりわかっていない節があり、自己完結的」というふうに捉えている。
御幸が穏やかであるというのは、人との付き合い方においてよく表れている。基本的に怒らないし、苛立たない。クリス先輩関連と、野球のプレイにおいて怒ることはあるが、自分そのものについて何を言われても基本怒らないのである。呆れたり面白がったりはするが、「コイツは俺のことを舐め腐っている」という方面の怒り方はまずしない。「優秀なオレ」「先輩であるオレ」みたいなところへの拘泥が薄い。美点である
初期の沢村や光舟の態度を基本「面白い!」で済ませられるところに御幸たる所以がある。ただ、その穏やかさがかえって「本心の見えない奴」という印象に拍車をかけていることは否めない。「俺なりにやってるだけなんだけどなあ」というぼやきが目に見えるようだ
性格が悪いとよく言われているが、単に物好きなのだろうと感じもする。私は御幸にガチの性格の悪さはまったく感じたことがない。人に嫉妬して蹴落としたり、負けた人間を見下したり、そういうことをしない奴だからである。深刻な悪感情から距離がとても遠いのだ。いつもニヤニヤしているが、腹黒というよりもシンプルに何もかもを面白いと受け取っているからだ、と気づいた時には驚いた。
そもそも野球、そしてキャッチャーという役職が楽しくてしかたなく、面白い奴なら自分に食って掛かっても大歓迎、という姿勢は、このポジションのキャラにしてはポジティブすぎて新鮮だった。
イケメンなのにクラスで若干遠巻きに見られていたりするのもなんかいいなと思う。イケメンを活用する気がないというか、イケメンであることを持て余している姿に絶妙に哀愁が漂っている。
ちなみに、御幸一也はもともと寺嶋先生の引き出しにはないキャラクターだったらしい。「バッテリー」「おおきく振りかぶって」などの女性作家の作品から新しいインスピレーションを受けたそうである。それにしては陰のない男だと思う。
倉持洋一:
二遊間の遊の方、スイッチヒッターの俊足チーター。元ヤンだが「人をよく見ている」という一面があり、チームメイトの怪我や異変にいち早く気づくという、作劇的にかなり便利な男である。人間関係の機微にもかなり聡いほうで、ポジショニングが上手い。前述のナベが辞める辞めないのひと騒動の時も、御幸と前園のどちらにもつかず中立を貫いた。
後輩の春市への声かけで「ちょっときつく言いすぎたかな?」と悩んだり、沢村のイップスのとき深く心配していたり、気弱そうな浅田には柔らかめにコミュニケーションを仕掛けたりというところに社会性の高さが見て取れる。
元々ヤンキー集団に属していたのだが、ヤンキーの連中からは割といいように利用されていた。ヤンキー集団の内情には詳しくないものの、たぶん言語的コミュニケーションよりもずっとノンバーバルに上手いふるまいが求められる集団と思うので、おそらくその中で身につけた社会性と嗅覚なのではないかと察せられる。中間管理職的な風情もあり、もしかしたら御幸よりモテるのではないかと思わせられる何かを持っている。
小湊春市:
二遊間の二の方、木製バット使いの小湊弟。お騒がせ野郎の沢村、怪物ルーキーの降谷に並んでも劣らないほどの1年である。中学生時代は打率7割、強豪青道に1年の身で即1軍入りと、客観的に見てもかなりの化け物なので、沢村世代は豊作も豊作であろう。何かやってくれと期待されたら基本何かやってくれる。
兄である亮介に憧れ、遊撃手である倉持と協力し、バッターとして前園と研鑽し合う、年上となにげに縁の深い男。顔がかわいらしいからでもあると思う。鵜久森の南朋もそうなのだが、顔がきれいに整っているということが他のキャラクターにも周知であるときの、扱いのちょっとした違いは胸に薄らぼんやりとした気持ちを抱かせるものがある。別に顔が違ったとしてもそれでまったく反応が変わることはないだろうが、やっぱりちょっと違うと思う。リアルだ。
兄の亮介はめちゃくちゃ気が強いのだが、春市もまためちゃくちゃ我の強い男で、かわいらしい見た目から想像もつかないほどの厄介さを併せ持つ。私が対戦チームの投手でこいつが出てきたらぜひ敬遠したいが、敬遠球をタイムリーツーベースなんかにされそうで凄く嫌だ
川上憲史:
沢村や降谷のあとに出てきて点を取られている印象のある、青道の投手である。平凡代表という雰囲気があり、沢村のように変化球を多く操れるわけでもなければ、降谷のように豪速球を投げられるわけでもない。球児の世界は残酷だと思いながら、「自分の役目は繋ぐこと」と考え、球を投げ続ける。
川上は自分の役目を投げ出さない。自分より力のある後輩にも妬まず、歪まず、自分にできることを着々と増やしていく。その結果がたとえ華々しく称揚されなかったとしても、そういう風にする。作劇の都合上、負け試合を受け持つことも多いし、目覚ましい活躍もあまりしないのだが、川上がいなければ勝てない試合もいくつもあったはずだ。
こういう奴がいるからこそ実世界も成り立っているのだ。仕事人こと白洲と仲がいいのも納得だ。
私は川上を見ていると、仕事に対する誠実さというものを感じる。誠実という言葉は昨今やたら乱用されていてあまり使いたくないのだが、今回に関しては当てはまる言葉が他に見つからない。
その誠実さとは、間違っているかもしれない金額の帳簿を何回もちゃんとチェックしたり、一つ一つのねじをちゃんと締め直したり、といった、誰にもわかりやすく褒められない誠実さだ。そういうことをちゃんとやる人間がいるからこそ、暮らしの地盤の崩落は防がれているのである。
村上春樹の小説に、「かえるくん、東京を救う」というものがある。うだつのあがらない中年男性である片桐の元に、かえるくんというどでかいかえるが現れ、東京を救ってほしいと頼む。
片桐は自分の収入と時間を弟と妹のために費やし、銀行の取り立てという厳しい業務をこなしながらも、兄妹や上司は、彼を取るに足りないものと扱う。恋人もいない。これといって優れていない人間だ。なぜ自分を選んだのか、と言う片桐に、かえるくんはこう言う。
「ぼくにはあなたの勇気と正義が必要なんです。あなたがぼくのうしろにいて、『かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい』と声をかけてくれることが必要なのです。」
「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです。」
そして、片桐とかえるくんの協力により、どうやら東京は災いを免れる。
私はこの役目はきっと川上にも務まるだろうなと思う。
川上はプロには行かないらしいのだが、きっと信用される社会人になるはずである。
轟雷市:
ダイヤのAのファーストインプレッション、怪物スラッガーの貧乏野球児。
マウンドでは野生児、クラスではシャイというあざといギャップによって一部ネット民の顰蹙を買った。
雷市は作中でも一二を争う怪物スラッガーとして設定されており、いつでも勝負を楽しみ、野球を貪欲に食らい尽くすハングリー精神を持つキャラクターである。家庭の貧乏さゆえにシニアに入れず、幼少期から毎晩橋の下でイメージ上の最強の投手相手にバットを振って強くなった、という背景がある。イメトレだけでそんな強くなれるのか?とは思うが、一意専心の力ということで納得はできる。
また、貧乏ゆえに飯が満足に食えず、いつも腹を空かせているという設定もある。だから比較的小柄で、172cmほどなのだが、どこからその剛力が出てくるのだろうか。
そもそもずっと腹が減ってたらどんどん痩せてって体作れなくないか?青道の寮では一回につき最低丼三杯食え!というおふれがあるのに比べると、雷市の食事事情はかなり終わっていると言っていい。もしかしたら食える虫とかをたくさん知っているのかもしれない。轟家は大丈夫なのだろうか
またこいつは投手としてもなかなかなものがあるが、怪物スラッガーでもあるのに剛腕投球も出来ますというのは思い入れの強さが濃すぎるなとも思った。ただ薬師は二刀流が多いこともあってそのあたりのバランスなのかなとも思う。親父の雷蔵のキャラ付けも含め、古き良き理想のようなものが詰め込まれている感じだ。
そして、おそらくネット民がもっとも気になっている描写として「クラスとはまるで別人じゃねーか」がある。雷市はマウンドにおいては恐れを知らない野生児のようなキャラクターだが、実生活においてはシャイで、極度の口下手で、すぐ赤面してしまうという一面がある。だからクラスでも舐められている。
そして試合を見にきたクラスメイトが言ったのが前述のセリフだ。このあと雷市はクラスでちやほやされる。(よかったね)まあ、これに「いくらなんでも」と感じるのはわからなくもない。「なんであんな野生児がクラスではシャイなんだよ無理あるだろ」という意見もある。
しかし、私はこのクラスではシャイという設定は秀逸だと思っている。なんならファンタジー性能に対してかなりリアリティのある人格をしているなという印象を持った。
雷市は人前で何か言おうとすると真っ赤になり、言葉に詰まる。また、全体的に語彙が少ない。間違いなく本を読むような家庭ではないので、そもそも言葉を知らないのだろうし、幼いころから野球バットばかり振っていたから、人と話す経験そのものに欠けているのだと思う。読み切り版だとそうでもないのだが
気を遣っているそぶりもないし、きっと髪や服、靴の手入れはしていないだろう。野球しかしていないので、流行の漫画やアニメなどの共通の話題にもついていけない。子どもは自分と違う子どもを結構はっきり見分けて遠ざけるものだ。子どもは大人より獣に近い
そもそも親父の雷蔵は野球しかしてこず嫁に逃げられ借金を抱えているダメな大人なので、「あの子とは話しちゃダメ」的に遠巻きにされていたことが容易に想像がつく。実際、野球塾は不審視されていた。三島や秋葉がいたからまだマシではある。
そして、遠巻きにされていることは子供にもなんとなく察しがつき、自分が「違う」ことに恥を覚え、なおさら自信をもって話せなくなる。そうしてさらに喋ることへの自信を無くしていく、という悪循環。なんでこんなリアリティあるんだ
綺麗な服装、滑らかな話し方は、それだけでコミュニティにおける「こういう環境で過ごしてきました」の通行証なのだと思う。
ちなみに、得意科目は家庭科と保健体育らしい。きっと一通りの家事ができるのだろう。保健体育については、「保健体育で良い点とった男子ってめっちゃからかわれてたな…..」と思っていろいろ切なくなった。おそらく普通教科の点数は壊滅的なことを考えると、轟家の教育方針つぶしがきかなすぎるだろと思わずにはいられない。国語が最低限できないと他の教科もできない(文章が読めないから)とはよく言われることだが、三者面談はどういう雰囲気なのだろうか。薬師高校はたぶん進学校ではないのでそこまで詰めはしないのだろうが。
「轟、問3を答えてみなさい」とか言われて10分ぐらい立ち尽くすところを想像すると、ありし日の記憶が蘇って何かと胸がざわつく。1分経過した時点で座らせろよ嫌がらせか?と思いつつ気まずい沈黙を共有したあの英語の時間。なんでもいいから言ってみなさい、じゃないのである。この状態でまともに答えられるわけないだろうが。ああいうのはたいてい先生側に問題がある。
傍から見ていてもどうもいたたまれないあの記憶も相まって、雷市にはちょっとノスタルジーを感じる。
あまり人と関わってこなかった子供、という描写と捉えると、かなりリアルな描き方だと思う。だからこそ、金のなる木として一発逆転という目的が映えもする。故障してほしくないものである。
真田俊平:
「激アツ」が口癖の薬師のエース、男前こと真田俊平。嫉妬や劣等感の存在感が薄いこの作品において、比較的暗めの性格をしている男である。
なんでもそつなくこなせるが、野球に真剣になるのが遅く(と本人は思っている)、トップ層には届かないことを悟っているような描写が定期的に入る。一心にバットを振る雷市を尊敬しつつ、「俺は雷市みたいにはなれない」と感じたりもする。まあ、それはそうだろうねと思うが、別にそれはいいんじゃないかなと思う。
御幸と同じぐらいイケメンだが、御幸のような対人関係における不器用さはなく、野球以外のところでもやっていけるだろう社交性を持っている。しかし、だからこそ、自分ではあそこに届かないだろう、という劣等感を時折垣間見せる。アイドルマスターシャイニーカラーズの田中魔美々を思い出させる奴だ。
ただ、その悩みを誰かに打ち明けはしない。それで腐ったりもせず、自分にできる最大限の努力をし、最後までエースとしてマウンドに立ち続ける強さがある。
「別に美形じゃなくてもよくね?」と初見時に強烈な異物感を感じたキャラクターだが、前述のように読み切りからの持ち上がりであることを考えると、美形である必要があったのだろう。
できれば野球を続けてほしいキャラクターの一人だ。こういう奴が最後の最後まで野球にしがみつく物語を見てみたい。
雷市とは対照的にクラス内カースト最上位層だが、明らかにクラス内でできたわけではなさそうなタトゥー入りの友達がいる。肝が冷える。
個人的にだが、クラス内ポジションは課題を忘れたとクラスのみんなの前で言ったときの反応である程度計れると思う。真田は「課題忘れてきましたー」と軽く答えてみんなが笑い、先生も呆れつつ許す、そういうタイプの奴だ。そういう立場の奴は結構周囲や自分や人生に白けがち(思春期あるある)だが、轟親子に会ってよかったねと思う。
ちなみに、大谷翔平の好きなキャラでもあるらしい。私はスラムダンクでは仙道さんが好きなのだが、大谷もそうらしい。かなりわかりやすい好みであるといえるが、仙道さんは少し不思議ちゃんが入っている節がありマイペースなので、本質的には結構違うタイプなように思う。
成宮鳴:
明確な格上投手として出てくる稲城実業のエース。小生意気な天才、都のプリンスというあだ名を持っていて、実際子供っぽいところのある青年だ。傲慢かつ小生意気ではあるものの清々しく憎めない奴である。
青道のライバルとしてイヤミな感じで出てくるし、「絶望を与えてあげる」とか言うしで、なんだこいつは…..という印象もあるが、デカい口を叩くだけの力と責任感を持っている。自分の大暴投が導いた負け試合のあと先輩から慰められ、「お前のせいじゃないってなんだよ、最初から期待してなかったってことじゃんかよ」みたいに考えることからもわかるように、人からの賞賛や期待、その裏にある責任をちゃんと理解している。背負ったものを重荷に思うぐらいなら最初から背負わない、という気概を感じさせる。プリンスというより王である。
青道は沢村一年時のときこいつ率いる稲城実業に敗れて甲子園出場を逃し、私も思わず茫然自失だったのだが、試合後「勝てて良かった、ずっとデカいこと言ってきたから」と泣く姿を見て、それはそれとして良かった…..。と思った。良かったなあ(涙)
御幸と友人で、「一也」「鳴」と呼び合うぐらいに親しい。(ダイヤのAは下の名前呼びが多いように思う。関係値が変わったときに下の名前で呼んだりもする。)
高島礼:
初期にやたらと「胸がデカい」と思われていた、青道のスカウトのお姉ちゃん。こういうキャラクターは途中からいなくなることも多いのだが、礼ちゃんはずっといて、ニコニコしながら(ニヤニヤかもしれないが)球児を見守っている。たぶん人事的な役割を果たしているのだと思う。田舎から沢村みたいなやつを引っ張ってくるところからもギャンブラー的気質を感じさせる。
初めセクシー枠として出てきはするのだが、妙にその描写にしつこさがなく、「まあデカいな」という面白さの方が勝る。英語教師、スーツ、巨乳、メガネ、クールっぽい話し方という役満にも関わらず、「この人、野球楽しんでんな」という全体的な雰囲気が彼女に独特のエンジョイ感をもたらしている。色っぽい設定があるが、良い意味で色気がないのが特徴である。
御幸はなぜかこの人を礼ちゃんと呼んではばからないのだが、いつもニヤニヤしている口元とメガネのために姉弟みたいな空気感になっており、絶妙にいやらしさがない。箇条書きマジックに釣られた人間は拍子抜けすること請け合いである。
余談だが、スポーツ漫画における女性キャラは、限られた存在の分、そこに作者の女性のシュミが見えるものだ。黒子のバスケはもっともわかりやすく、気の強い女性しか出てこない。ダイヤのAに関して言うなら球児たちの漫画にしては性欲が薄い感じがする、これは偏見である
人生の違い
私はダイヤのAとは、根本的に人生観が違うと感じている。
それは嫌いということではなく、ただ「違う」。
ダイヤのAが同級生だったら、あーほんとに私と違うんだな…..と思いながら会話することになると思う。
精神のあり方が違う。
わかりやすく衝撃を受けたのは、稲実戦を控えた三年生の描写である。
明後日の試合、これに勝てば甲子園、負けたら引退という三年生たちは、ミーティング後マネージャーに声をかける。
「あと2日よろしくな.. 俺達も死ぬ気で戦うからよ!」
それを受けたマネージャーたちは嬉しそうな、誇らしそうな顔をする…..というシーンだ。
私はこれに動揺した。
いやマネージャーも仲間なんだから当たり前だろ、と言われれば当たり前なのだが、もし私が強豪校の甲子園を控えたミーティング後を描けと言われたら絶対に思いつかないだろうシーンだったからだ。
そうか…..。こういうときに改めて「よろしく」と言うんだ。
そしてそれはきっと彼らにとって当たり前の事なのだ。
なぜなら、彼女たちもまた仲間だから。
特に貴子先輩は三年生たちにとって、ともに成長してきた仲間だから。
単なる画面の華ではないから。
こういう描写をさらりと入れられるからこそ、ベンチに入れなかった3軍の人たちを誇りに思う監督や、データを取ってきてくれるナベに感謝する御幸たちが嘘くさくならないのだ、と思い知った。
私はどれだけの人を範囲外にしてきたのだろう…..
ダイヤのAに見えていて、私に見えていないものはなんなのだろう…..
ちょっとしたシーンなのだが、自分の人生を振り返るハメになった。
まあ振り返るだけで特に変える気はないのだが…..
どうやって生きるか、その発想が違う。
それは人生の違いでもあるのだろう。
最終的な考え
ダイヤのAを読むと、人生の一過程を切り取った漫画だと強く感じる。
思春期に少年たちが大人に変わる過程を描く漫画として読んでも、あながち間違ってはいないと思う。
野球というスポーツ、そしてチームという社会を通して、子供が大人になっていく。その道には挫折もあれば傷もあり、どうしようもないアクシデントもある。見えなかったことが見えるようになり、それは必ずしも良い結果をもたらさない。
正しく大人になるまでの厳しさがそこにあるように感じた。
ダイヤのAは明るいが、一方で厳しい。
強大な敵へのジャイアントキリングは、一部を除いてあまり起こらない。
桜沢高校に対する稲城実業、八弥王子高校に対する青道高校。どちらも懸命に戦っている敵をコールドで叩き潰している。
だが、それは「倒すべき悪」として描かれはしない。主人公校と、そのライバル校がどちらも人材豊富な強豪校なのだ。
毎日毎日野球漬けで、部内での熾烈な競争を繰り広げ、修学旅行さえ行けない。ベンチに入れる部員はそれでも一握り。自分のできる限界まで努力しても、それを上回る人間がいくらでもいる…..。
これを悲壮感たっぷりに描こうとすれば、いくらでもできただろう。
実際、自分がそのできない側の立場だったなら、毎日日記に恨み言を書いていたはずだ。というより、即やめると思う。
「強豪校の」「たくさんの部員の上に立つ選ばれた連中」が、「一芸特化して鍛え上げてきた弱小を打ち崩す」ということも、書こうと思えばいくらでも露悪的に描けたはずである。
強豪校の連中はできない二軍を内心見下していて、人数の少ない弱小を見下している、というような感じで。
これで少なからず、「あいつらは強いが、リスペクトの精神を失っている」という道徳的優位性を保てる。
私は、こうであった方が幾分か優しい漫画だったと思う。
だがダイヤのAの強豪校は主人公校である。
主人公の沢村がまさに代表例だが、青道高校の部員で弱小をみくびる奴はいない。努力を怠ったり、人を舐めて自己研鑽をやめれば、即誰かに取って代わられる。
厳しい。
「才能を持ち、たくさんの競争を勝ち抜き、仲間と相互に研鑽し、挫折しながらも努力し続ける」人間たちが強いのは当たり前だからである。
油断しない強豪の方が強いに決まっている。
実際、作中の進学校、王谷高校のピッチャーはこう言う。
「選手集めて遅くまで練習ばっかやってりゃ強くて当然だろ 夢があるのはどっちよ?」
その通り。
全国から強い選手を集めて正しくたくさん練習してりゃ強くて当然である。
もし帝光中のキセキの世代が全員緑間並みの意識だったら111-11で済むわけがない。
強い奴が、強い奴の中で、凄く努力したら、強い。
身も蓋もない正論だ。
ダイヤのAには、他にも身も蓋もない正論が飛び交う。
仲間のためにと頑張れば良い結果が出る、とは限らない。(むしろそれで力んで、そのせいで負ける展開も多い)
努力は嘘をつかないが、必ず勝利をもたらすわけではない。
しかし、努力しなかった分の綻びは、どこかで必ず現れる。
こういう、時に信じられないほどシビアな正論がさしこまれるのがダイヤのAなのである。
ある種、とんでもなく夢のない漫画かもしれないと思う。
その「夢のなさ」=「現実」に追いつかれそうな怖さを、読んでいて強く感じる瞬間がある。
キャラクターたちが故障しかける描写を読んだときだ。
クリス先輩を代表例として、ダイヤのAには「才能に溢れながらも怪我で野球ができなくなる」キャラクターが多い。鵜久森の南朋もそうだ。
デッドボールによる負傷、無理をしての捻挫など、怪我の描写は枚挙にいとまがない。
それは理不尽で、かつ、とてもよくあることだ。雷は落ちる場所を選ばない。
リアルだからこそ、怖い。
現実がヒタヒタと音を立て、漫画全体の明るさを突き抜けて、足元に迫ってくる感じがある。
他のスポーツ漫画なら、一時の怪我があったとしても、それを「ああ、作劇都合ね」と頷いて受け止められる。だが、この漫画ではそうもいかない。
もしかしたら、本当に駄目かもしれない。
その気持ちが一瞬よぎるのである。嫌な汗をかく。現実味のあるキャラクターと、リアルの社会に似た漫画の構造がそう思わせる。
その現実に追いつかれたスポーツ漫画が、井上雄彦の「リアル」なのだろう。スラムダンクのリハビリ描写は、今も私にとってかなり怖い。治るかもしれないが、治らないかもしれない。
沢村のイップスが治ること、降谷の捻挫が軽症で済むことに、私は大分ホッとした。
しかし、怪我をしても「続ける」と決めた人間は画面に映り続ける。
まだ勝負をする気がある、ということだからだ。
私はダイヤのAを読むと、いつも少し悲しい気分になる。
そこには基本、リングに上がり続ける者しかいないからだ。
努力しない者は、いつのまにか画面から消えている。鬱屈や嫉妬、自己嫌悪、そういう「置いていかれる側」に寄り添うような描写、いろいろな意味での「敗者」には、あまりスクリーンタイムは与えられない。
いったい何人が鬱屈した思いを抱えて青道野球部を去ったのだろう。
いったい何人が降谷や雷市、もしかしたら沢村も、のような「怪物」に自信を打ち砕かれて、野球を辞めたのだろう。
しかし、私がダイヤのAを気に入っているのは、まさにその点でもある。
前述の「負の念」でも語ったが、勝負ごとにおいて立ち止まっている人間がどのように立ち止まっているかは完全に個人の問題である。
「できなかった」側の鬱屈は、「できる」側にとって何の関係もない。
自分が悲劇的であることは現実の状況を変えない。
もし降谷や雷市のおかげで自信がなくなって、野球を辞めた奴がいて、それを本人たちが知ったとしても、「…..?…..そうなんだ…..」と、練習を再開するだろう。
それでいい。
たとえ誰かがそれを見て彼らを憎んでも、憎んでいる間に、彼らはずっと野球をしている。
これは今流行りの自己責任論、つまり「勝てないのは努力していないからだ」という、結果の全てを個人の努力に帰するものだとみる人もいるかもしれない。それは違う。もっと厳しい。
努力していても勝てないからだ。
かといって「勝てないのは才能がないからだ」ともならない。
才能があっても勝てないことはある。
努力と才能が揃っても、一つの綻びが負けを呼び込む。
その条件下でも努力し続ける球児たちに敬意を持って描かれた漫画なのだ。
3年生の過去回において、もう無理だと立ち止まったチームメイトに、彼らは手を差し伸べない。
「辛いのはお前だけじゃねーぞ」と言って外周に戻る。
立ち止まったらそこで終わりだからだ。
「生き残るには前を向くしかない」。
それは残酷な事実と言うまでもない、当たり前のことなのだと思う。
「君が努力していても していなくても 他の誰かが打席に立って活躍する 青道はそういう場所だよ」という言葉が簡潔な要約だろう。
できて、かつ、現実の中で努力を続ける人間を、真っ向から肯定する。
そういう前向きな厳しさが、ダイヤのAには詰まっている。
ダイヤのAは別に完璧な漫画ではない。いくらか引っかかる点もあるし、それはないだろと思うところもある。
しかし、完璧な漫画というものは存在しない。人生と一緒である
当面の感想なので、今後変わることもあるかもしれないが、今のところ私はダイヤのAが好きである。